ア.国家の負担を減らすものである。
国家の難しい経済事情により軍に必要な物資を供給できていないのは、既にかなり以前からである。しかし、軍隊において大量餓死者が発生せず、戦闘力を維持しているのは、軍隊が外貨稼ぎをそれでも比較的上手くやり、米、食用油、飼料等を買い入れ、衣食の問題を自体で解決するためである。外貨稼ぎを上手くする部隊では、食べる心配をしていない。
イ.外貨稼ぎはまた、部隊の戦闘準備完成にも助けとなっている。
1980年代末から、総参謀部系線と軍団では、外貨を稼ぎ、その金でPC通信網を構築したのである。総参謀部から軍団、軍団から師団までPC通信網が構築されている(後方軍団を除外)。軍団級において通信網を構築するのに、30〜50万ドルがかかっている。PC網が良くできている部隊は、3軍団、平壌高射砲兵司令部、海軍司令部、空軍及び反航空司令部である。1993年、3軍団本部において、PC通信網構築及び利用と関連し、全人民軍的な師範方式教育があった。
空軍及び反航空司令部では、自体で稼いだ外貨により航空石油を買い、飛行士の飛行訓練を保障している。対外事業局テリョン貿易会社は、エジプトから貨客船「ヘヨン号」を運営して、又取引貿易を通して、年に約20万ドルを稼ぎだし、この金を海外武官の事業費に充て、また、外国に軍事代表団を派遣するときに必要な経費に支出する。
電子戦局、通信局を始めとする人民武力部の大多数の局が自体で稼いだ外貨で部隊の戦闘力維持に必要な設備、資材を経済的に買っている。
2.否定的影響
ア.軍人中において個人主義を造成させ、各種犯罪と非理を唆しているものである。
北朝鮮住民中において外貨に対する関心が高まり始めたのは、1980年代初めからである。1983年から、平壌市に外貨商店が生まれ始めた。現在は、平壌市だけでも外貨商店20余ヶ所、元山を始めとする道毎にも数ヶ所ずつある。外貨商店では、主として日本製、中国製商品を売っている。北送僑胞、外国旅行者、海外縁故者が主な顧客である。
外貨商店が生まれるまでは、幹部と外国に通う者を除外しては、ドルが米国の金なのか、フランスの金なのか、知ることもできなかった。外貨があっても、国内で使うことができなかった。一部の者は、ドルと円を米国と日本の金だとして、金自体を憎悪するまでになった。1968年1月、米国船舶「プエブロ号」が元山近海11海里界線まで入ってきたが、北朝鮮軍海軍により拿捕された。そのとき、船と船員にドルがあったが、士兵達がドルが米国の金だとして、麻袋に入れており、一部を燃やしてしまった事実もある。偵察局(対南間諜を派遣する部署)成員がこれを発見して、制止しなければ、全て燃やされてしまったはずである。
巷では、このような話も出回っている。1950年の6.25戦争時、咸鏡南道長津湖辺まで入ってきた米国兵士が急に退却するに及んで、ドルを持っていくことができないため、その周辺に住む農民がこれを麻袋に入れ、絵がきれいなので家の中の壁紙にして今まで暮らしてきたという。1980年代中盤から、ドルに対する関心が高まるや、外貨稼ぎを専門にする者がこの家に行き、おばあさんに高級酒とタバコを与え、ドルを全て外していったという。
外貨に対する関心は、特に高位層幹部中でより深く現れた。前人民武力部長呉振宇次帥は、1980年、海外公館武官会議時、2万ドルを1年内に4万ドルにしてみようという希望者が出てくることを訴えた。当時、アルジェリア駐在北朝鮮武官ユ・テウン上佐がすることができると答え、その席で彼に2万ドルを与えた。アルジェリア武官は、その金を任務を受けた期間内に作るために、チェコスロバキアを始めとする各国を行き来し、外交官の職分を悪用し、免税で酒、タバコ、電子時計を売買した。
呉振宇は、この外にも、軍隊内の専門貿易会社社長から非資金を取りそろえた。彼の執務室に金庫があり、その中には、常に数十万ドルが入っていたという。彼は、金の一部を金正日に捧げ、残りは、親姻戚に与え、身を捧げた女性に与えてやった。東ドイツにおいて、金日成の3男金英一と6年間一緒に勉強した3男呉イルスがおり、彼が外国に秘密裡に持っている非資金が約50万ドルという話もある。前人民武力部副部長金光鎮次帥の言葉によれば、将軍が外国に行くときには、小遣いとして200〜300ドルずつ与えるという。
上流の水が澄んでこそ、下流の水も澄むように、軍最高の頭がドルに頭が上がらないのに、その下の幹部の実状は、言うまでもないことである。今まで、ドルのために、数多くの将軍と将校が処刑され、撤職された。軍団長を始めとする幹部は、口々に外貨稼ぎの当為性を提起し、外貨稼ぎ会社を作るか、外貨稼ぎ事業所を組織した。
このような空間を利用した者が士気協作軍であった。彼らは、大々的に外貨稼ぎ事業に駆け込んだ。彼らは、幹部にドルを与えることも行い、女性も紹介する等、自己の活動の足場を堅固にするため、手段と方法を選ばなかった。また、ドルの味をしめた幹部もやはり、各種非理にさらに奥深く介入し始めた。1980年末から、人民軍隊では、外貨稼ぎは、教化(監獄)稼ぎという言葉が流行し始めた。外貨稼ぎ事業に足を踏み入れたときから3年も過ぎれば、監獄行きであった。その位、非理が多かったことを意味する。ここでは、それが軍事指揮官であるか、政治一群であるか、保衛一群であるかに関係なく関係した。
1987年、人民軍総政治局成員は、局で稼いだ外貨で軍人の文化生活に必要なTV、楽器を買う名分を立てて、カラーTVと冷蔵庫を買い込み、自分達で只で分け持ったが、金正日に信書が提起され、100%回収されるハプニングが起こった。
1989年からは、人民武力部会館では、年に平均3〜4回の公開裁判が進行されていた。裁判に参加したが、出てくる言葉が外貨稼ぎでなければ、軍事検察局と裁判局がすることがなくなり、裁判に対して非難されていた。多くの者が罪を負った者を罵るのではなく、それが属していた部隊の指揮官、政治一群、保衛一群を非難した。彼らは、ドルを受けてしまうため、外貨稼ぎ一群が利用するときには、上手くやっておだてるか、一旦、非理件にかかれば、知らぬ顔の仏を決め込むのが1つの慣例である。
どうしても、目を当てられないことが1度あった。武力部財政局長(少将)とその義弟に対する裁判があった。平時、肉が余りについて、軍服ボタンが飛び抜けたようで、帽子には黄色い金縁を巻いて通っていた者が骨だけにやつれて、脱色した士兵服に黒いゴム靴を履き、捕縛縄に縛られて、武装した兵士の護送を受け、裁判場に入ってきたときだった。財政局長としては、呉振宇が最も信任していた幹部として歩み、10チョンをもらっても国庫に入れ、生真面目と噂された人だった。偵察局直属鴨緑江大学外貨稼ぎ指導員だった義弟のコ・イムスに渡し、局長は、彼に武力部の金庫にある外貨を貸出し始め、後には、彼と共謀して個人の利息を取りまとめ始めた。財政局長の家を捜索すると、ソファーと食卓椅子の下に数十万ドルと金4kgが出てきた。裁判において、義弟は、外貨蕩尽と国家軍需物資横領罪により銃殺刑を、局長は、15年の刑を受けた。
1990年には、メボン貿易会社社長シン・ジェゴン大佐が外貨を着服し、事務室の個人キャビネットに金7kgを補完したことが罪とされ、15年の刑を受けた。1994年に起こった6軍団事件の始発点もドルから始まったものである。軍団において、2人組の政治委員を始めとし、6〜7名の将星が外貨稼ぎ専門一群を外して、阿片を中国に闇取引し、1人当たり5〜6万ドルを稼ぎ、この過程に酒の席をしばしば開いて、金正日に対する不平、不満を言ったものである。これが大きな政治的事件として取り扱われ、関連者全員が逮捕され、処刑されて、粛清された。
1993年7月には、4.25文化会館6千席劇場において、人民武力部将校全員が参加する非社会主義現象と関連した思想闘争会議を行い、現場で20余名が逮捕された。その中には、電子戦局部長(大佐)と通信局副部長(少佐、ロシア軍事留学生)が入っていた。彼らは、2万ドルを持って、電子戦機材維持附属を買うために、ロシアに約3ヶ月間、出張していた。ロシア事情を良く知る通信局副部長が出て、1万ドルで約3万ドルに該当する部品を買い、各々5千ドルずつ持って、この金でロシア女性と性関係を持った罪とされた。
1988年〜1991年の間に、フランス駐在北朝鮮大使館武官をしていた金ヨンイル大佐は、軍事情報資料収集に必要な資金を作ろうと提起し、オーストリアで電子時計を買って、ロシアに売り、7万余ドルを稼いだ。その内、資料収集には、3万ドルを使い、残りは、自分と副武官で分けてしまい、武力部高位幹部への賄賂に充てた。人民軍保衛司令部に1ヶ月間連行され、予審(審問)を受けた。人民軍検察局から武力部長に上がった文件を偶然見ることができたが、ここには、罪過は厳重であるが、彼の父、母が対南革命家であるために、容赦しようとするものだった。 金ヨンイルの言葉によれば、父が日本の早稲田大学卒業生で、6.25戦争前に韓国に派遣されたために、顔も知らないという。
総政治局敵工局の外貨稼ぎ会社であるチルソン貿易会社社長と副社長は、1993年、ロシアに通い、韓国企業人としばしば会って、ドルを受け、国家軍事機密を体系的に売り渡したことが暴露され、銃殺された。
イ.軍綱紀が紊乱し始めた。
部隊指揮官は、外貨をより多く稼ぐためには、手段と方法を選んでいない。その理由は、部隊の前に下達された外貨稼ぎ課題を遂行しようとすることもあるが、重要なのは、自己自身の利害関係と直結しているためである。外貨があってこそ、高級酒、外国製タバコを吸うことができ、子供、娘が結婚するときにTVでもやるためである。
部隊長は、士兵を安全施設も絶対にできていない廃金鉱、銅鉱の坑道に送り込んだり、極寒の海にしきりに追い立てているのが実状である。士兵自身が部隊の中で強い規律の中で一日終日訓練を行うより、外貨稼ぎに動員されることをより好んでいるのが実状である。肉体的にあまり疲れず、空間・時間が多く生じ、腹も減らず、高級酒やタバコをたしなめるためである。
士兵は、指揮官に知られずに金を隠すか、貝類のようなものを引き抜いて売ってしまい、録音機、腕時計等と代える。一部の軍人は、ウニを軍帽の下に隠して持ち出し、民間人の外貨稼ぎ専門家に売ってしまい、ウニの棘に頭が刺さって血が出てもあずかり知らないという。
軍人が多く外貨稼ぎに動員されるにつれ、事件事故も相次いで起こっているのが実状である。外貨稼ぎを行うために、鉱山に入って働き、抗が崩れるか、海に出て、満ち潮に及んで避けられずに運命を共にする等、事故により死ぬ人員が総参謀部直属部隊だけでも、1年に数百名となる。1992年秋に、金日成政治大学において、イシモチ取りのために、海に出たが、満ち潮にさらわれ、1個小隊(30名)全員が海に落ちて死ぬ惨事をもたらした。
ウ.外貨稼ぎにより国民関係も深く毀損しているのが実状である。
軍人が民間の外貨稼ぎ会社から捕まえておいた魚を盗んで来たり、港の倉庫を襲撃して輸出のために包装しておいた製品を盗むことが後を絶たない。1991年、通信局将校(中佐)は、開城に出て、人参輸出会社に入り、3千本の人参を盗んで売ったが、摘発された。また、東海にある1軍団外貨稼ぎ事業所では、民間人が日本の貿易会社と合作し、ウニ取りを行う網、かご、ロープを盗み、倉庫に隠したが、かごに付いている追跡装置により発見された。
最終更新日:2003/05/01
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